「未発表の絵と音」と私


「未発表の絵」と私


 誰も何も頼んでないのに、本能的にどんどんつくっていってしまう奴、私はやはりそういう奴を信じる。そして、そいつがいつもピーハツな笑みを浮かべ、ニヤッと敬礼のマネなんかされた日にゃ、私は黙って白旗を掲げよう、潔く。
 私はどんどんどんどん次の何かをつくり、そしてそれを自分で見、その瞬間自分の中でジュッと音を立てて起きる感覚に底知れぬ快感を覚える、という風でありつづけたい。そこにわかったような理屈をつけ、どんどんつくらなくなったら、それはもう私ではない。たとえどんなに他人にそしられようと、どんなに意味がないと言われようと、どんなに認められまいと、一点も売れなかろうと、私は笑顔でどんどんどんどん次の何かをつくる、私の見たいものを私のつくりたいようにつくる、そんな男に私はなりたい。私は寡作はかっこわるいと思う。多作はかっこいいとは決して言えないが、それでもかっこいい寡作よりは、ましだと私は信じている。
 どうしようもねえゴミにすらなれないものも、一瞬「オッ最高」と心の中で思ってしまうものも、そんなことはどうでもいいから、どんどんどんどんつくり、そして容赦なくそれを壊し、そしてまたどんどんどんどんつくる奴、私はそんな奴を無言で信じる。意味は何もないが信じられると私は思う。たとえそいつが薬で脳ミソボロボロでも、底ナシの女たらしであっても、約束は絶対破る奴でも、酒グセメッチャメチャ悪い奴でも、鼻もちならない奴でも、救いようのねえバカでも、私はそいつのこと大嫌いになるかもしれないが、どこかで絶対信じると思うのだ。
 誰にも何も頼まれないのに、どんどんどんどんつくる奴、そういう芸術家に私はなりたい。


大竹 伸朗

初出:エスクァイア 96年12月号  
所収:「既にそこにあるもの」



既にそこにあるもの (ちくま文庫)

既にそこにあるもの (ちくま文庫)


ほとんどお守り状態でかばんに入れてあるボロボロの「既にそこにあるもの」に収録された一篇のエッセイから。
文章の最後を「なりたい」で締めるという凄まじさ。
別にこれを肴に何かを語るつもりもないのだが、何度読んでも勇気というか希望のようなものが自分の中で強烈に芽生えるので、ここに紹介したかった。




で、レコードジャケットにごちゃごちゃと塗ったり貼ったり、なんやかやと作業をする毎日なのだが、ふと「いま自分がしていることはアートやデザインではなく、ただ誰も見たことがないレコードをつくりたいだけなのではないか?」という思いがデロリと漏れ出てきた。
その思いの方が、いまつくっている絵をアートの文脈に落とし込むための理屈よりも、遥かに本質的なのではないかという気がするが、いかがか。
そう考えると、どんどんどんどん思いは暴走し始める。
レコードのジャケットをつくるのであれば、中に入っているレコードにも当然塗ったり貼ったりしなければいけない。
それをただ並べて展示するだけで良いのだろうか。
知り合いの腕の立つDJズにかけさせたい。
それも4台くらいのターンテーブル上で。
BPMもくそもないミックスとスクラッチと針飛びで聞いた事のない音とそれで埋まる空間。
演歌、ジャズ、ロック、歌謡曲、ソウル、サウンドエフェクト、オーディオチェックの細切れになった音の粒がひと塊になる瞬間を注意深く待つ。
かけているレコードのジャケットを、ビデオとスクリーンに同期させて壁に映し出させる。
その映像を元にVJが即興で映像を作り出す。
誰も持ってないレコードで誰も聞いた事のない音、というか異国で偶然拾ってしまったラジオ電波のようなノイズと、誰も見たことのない映像。
何をつくっていたのかもわからない巨大な工場の廃墟で行われるパーティ。
……という訳で、自分が個展をやりたいやりたいと言いながら、だらだらとやらないままでいるのは、ほとんどこのような無茶なことばかりを妄想しては、「む」「り」「だ」「ろ」「な」という諦めが心の奥底に沈殿していくのを感じてしまい、そんなことを考えるくらいなら手を動かそうと、つくるしかない現実に戻る。
そして夜が明けなけりゃ良いのにな、と思う毎夜朝方。




赤い旋風温泉




しましまオバホルモン




想像力の下水管




伊勢海老の夢




二つの心と二つの二




配電板




怪獣売場




エクスタ富士




Looking For The Perfect Pieces




象印ヂャー・銀座トルコ・松戸ぢ




インチキ幾何学北斎とかデューラーとかに捧ぐ)




feat.道aka道画ファイルナビゲーター