LIVE and DIRECT
旅の報告が途中でとまってしまっている。
異人館の詳細や大阪の写真などを載せたかったが、4日間で600枚以上の写真を撮影しており、どの写真を使おうかと考えたりリサイズしてる間に、新しい作品製作にとりかかってしまって、そちらにかかりきりではっきり言ってブログなんて面倒くさい。
やれ今日は何があった、どう思った、ということをさらりと書くには大した変わり映えのしない毎日で、ならば「小さな幸せ」を書き綴れるほどにも人間ができていないし、最大の落とし穴は「特にいま必死こいて言いたいことがありません」であったり……。
「どうせやるなら徹底的に」「それが無理ならやらない方がマシ」と無駄に粋がりたい性分のせいで、ジリジリと情報としての鮮度が落ちていく。
腐る手前で書くことにする。
今回はブレイク。
「コンセプト」とか「技術」とか「手癖」とか、が表層意識に現れて何かを構築しようとしていると感じたら、すかさず利き手でない方の手に筆を持ち替えたり、画面を見ないで筆を走らせたり、ひたすら速く描いたり、ひたすら強く描いたり、複数の筆で描いたり、大量の紙片から偶然に掴んだ紙片でどうにか貼ったり、貼ったものをはがしたり。
何かしらの「目的意識」や「構成しようとする賢しら(さかしら)」からどれだけ自由になれるのか、という不自由極まりない、さらに「コンセプト」ですらない、「態度」という他ない制作方法をやってみたら、酩酊と覚醒が同時に起こっているような状態になって面白い。
「作品をつくる」という意識の芽を摘むために払う注意は非常に冷静なもので、しかし一方で「作品をつくる」という意識を否定したり反抗したりするカタルシスは、完成度の高い作品を作ったときの興奮をしばしば凌駕する時がある。
まとめようとする自意識を振り払って異常なスピード感で増殖していく画面の生成プロセスは、プラモデルの組立説明書のように明快ではなく、苔や菌類やウィルスの世界や、風雨に晒された壁のように、いつの間にか「それ」になっていたりする。
「時間」とか「フロウ」とか「事故」とか、「それ」はそういうものを感じさせてくれる。
生でRAW。
ぜんぜん関係ないけど、大好きなライブ映像。
BIG DADDY KANE
Breakestra