途中の壁、これから鳴る音

町を歩いていると、ついこの間まであったビルが解体されて、その空間だけがボッコリと抜け落ちている光景に出くわすことがある。
そんな時、その空間に隣接している建物の壁に視線が行く。
まだ健在である隣の建築物の裏の壁は、必ずと言っていいほど汚れている。
クリーニング不可能なわずかな隙間にたまった埃や排気ガス、通気孔から排出された煤などが、その隙間に入り込んだ風雨によって、長い時間を経て壁に定着されている。
確かにその壁は汚れてはいるけれど、通気孔から放射されて付着した煤は、どんなエアブラシにも出せないような強靭で濃密な表情と雰囲気を醸し出している。
壁にこびりついた埃や油やシミは、どんな紙やキャンバス、筆を使っても再現不可能な、また、そのシミの生成過程を想像することすら困難な、まさに奇跡的な汚れ方をしていたりする。
そんな壁を見ると、「これも絵だ」という強い思いが湧く。
それは作為も目的もないただの壁の汚れでしかない。
しかし間違いなく自分の中で「絵」としか思えない、そんな壁に出くわすと、一言に「制作意欲」と言うのとは微妙にズレた、不確かで曖昧で、ただ強烈な衝動と確信を伴った何かが、自分のスイッチを破壊しかねない力でもって押すのを感じる。
今描いている絵は、レコードのジャケットという決まったサイズに、絵の具や雑誌やポストカードの切り抜き、ラメ、ティッシュペーパー、和紙、糸、付箋、フェルト、カッティングシート、プラモデルのパーツなどを、どんな絵になるかも特に考えずに、塗ったり、汚したり、貼ったり、剥がしたり、練り込んだり、を繰り返しながら描いている。
禁忌というほどのものでもないが、「素材をケチったり整理しだすとデザインになってしまう」「画面に意味が簡単に浮上してくると頓知や説明になってしまう」という意識だけを心の片隅に置き、無駄・無意味の集積をわずか30センチ四方の空間に圧縮させている。
今後、この作法がどのような作品なりシリーズとして着地するかは全く予想もつかないし、考えてもいない。
けれども、乾かない画面に置かれた色が滲み流れ、下の素材や色と互いに影響し合い、それらがどのように定着するのか分からないまま就寝し、翌日の朝に起きて画面を眺めて、狙っては生まれない風情をそこに確認する度に、「もっと行ってみよう」と思う。
ゴールも目標もないのだけど、「あっち」と、どこの誰だかわからない奴に指を差されて、訳もわからないままにその方向へ進むのを微塵も疑っていない、という状態が続いている。
そんな「絵」を、「時間」や「偶然」や「事故」の力を借りながらつくっていると、町の片隅に不意に現れる作者不詳・使途不明の「壁画」を思い出す
































仮の姿ではあるが、まだまだモノマネの域は超えないか。
たぶんこれらももう何回か無駄に手数を費やす予定。
20枚を超えた辺りから、「無作為を演出するための作為」「無意味と思わせる為の意味」みたいなのが出てきてしまう。
ある意味でいつも通りの難関登場。
「勢い」とか「天然」が様式化されてしまうことほどつまらないものはない。
本来の目的が倒錯・転倒しはじめたので、ここら辺で一度晒して区切る。
この一周回ったくらいからどんな手を打っても重苦しい気分になるのだけど、ここを堪えれば経験上また音を立てて進んでいくはず。
広島カープばりの千本ノックとまでは言わないが、やっぱり3桁超えてなんぼだろ、とは思う。
それでも、人にとって面白いものができるかどうかは、保障できない。
でも100超えたら、自信だけはきっとつくんじゃないか。
いくつかは人が見て面白いものも出てくるんじゃないか。