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昨日は六本木ヒルズへ「医学と芸術展―生命と愛の未来を探る」(http://www.mori.art.museum/contents/medicine/index.html)を見に行く。

クリスマスなので東京タワーにハートのライトアップが。
普段のライトアップの方が全然良いと思うが。


「身体」をテーマにした展覧会で、ダヴィンチのデッサン(実物)をはじめ、
中世ヨーロッパの医学書、人体模型、絵画、医療器具から、現代アートまで、
バリエーション豊かな展示で見応えあり。


3、400年前に書かれた医学書にある人体の挿絵などは、
どこかアウトサイダー・アート(厳密な定義ではないが、端的に言えば美術教育を受けていない、主に脳などに障害を持った人たちのアート)のようだった。
今では医学や科学の発達によって「人間」というものが「分かる」「見える」と自分を含め、
あらゆる人が思ってしまっているが、「果たして?」という疑念が湧く。
もしかしたら、数百年前の医学や科学が未発達の時代の解剖図と、
近現代のアウトサイダー・アーティストたちの絵の不思議な類似には、
人間の想像・創造力において何かヤバい本質的なものが貫いている気がした。


他に目を引いたのは、「貞操帯」と「男性用マスターベーション禁止器具」だった。
はじめて現物の「貞操帯」をマジマジと見た。
形はいわゆるTバックだった。
ただ鍵の付いた鋼鉄のパンツだと思っていたが、
ちゃんと便をするために「小」用の亀裂と「大」用のカーブ(穴を避ける為のピンポン球程度のRがある)が施されていた。
「あ、なるほど」と、生理に即した機能を考慮して作られているんだと感心したのも束の間、
「そっちの穴の貞操観念は観念したのか…」とも思った。


「男性用マスターベーション禁止器具」は、下を向いた水道の蛇口そのものだった。
恐らく騎士の甲冑などを作っていた優秀な鍛冶屋によるそれは、
鈍い光を放った重厚かつシンプルな鋼鉄の管で、重力に任せ飴の様に蕩けた流麗な曲線を描くもので、
いままでに見たどんな水道の蛇口よりも美しいと思った。



今日は仕事帰りに、今年最後の神田明神参り。
今年は何度ここへ心を鎮めに来たことか。
「江戸っ子」というのは本来、神田にいた江戸の人間のことを言うらしい。
自分もそこで仕事をしているので、「江戸っ子」にあやかり、
参拝する度に財布の中の小銭を全て賽銭箱に投じてきた。
今回も例に倣い、いつもよりも念入りにお参り。
自分に関わる人たち全ての安全・無事・無敵を願う。
ちなみに「無敵」とは、自分を倒す敵がいないほど「強い」ということではなく、
「自分に敵対する人の無い状態」である、つまり「世界と調和できている」状態である、
というようなことを何かで読んだ。
とても好きな解釈なので受け売り。
敵は我にあり。
来年もまた宜しくお願いします。

ついでに、明日の有馬記念の的中を切にお願いする。
明日は久々の現場観戦。




最近の製作状況。
この頃は、画面のディティールを凝視したくなるのをあえてこらえて、
乾くのも待たずに次のジャケットに取り掛かることにしている。
絵具などが有機的な動きをするのを見ているのは眼に非常に心地良いのだが、
危うく「フェチ」の落とし穴に落ちてしまいそうなので。
落ちて何が悪いのか、という反問もできるのだが、なんかそういうのじゃない、みたいな。
もっと野卑に。不機嫌な顔してスパンキング。レッツ徒労イング。
そんな感じ。

車のスクラップ工場に積まれたペシャンコになった車の塊があるが、あの「圧縮感」は、
漆黒の塩化ビニールに刻まれた音と、それを包むジャケットからなるレコードというメディアが、
レコード棚に並んでいる様子に似ている気がする。
圧縮の圧縮の圧縮のアッシュクのあっしゅくのあっくしゅの握手の悪臭のはっくしょん。
どれだけ並べられるか、どれだけ圧縮できるのか。
話はずれるが、コレクターかそうでないかの線引きは、所有枚数を把握できるかできないか、だと思う。
数えられてるうちはコレクターではない。
全てのレコードを把握できているようでは、まだ狂気の沙汰でない。
自分の作品数はまだまだサタデーナイト・フィーバーには及ばない。


くっっだらね。


レコードバッグにこんなレコードしか入ってないDJたちの催すパーティはどんな音が鳴っているんだろうか。
そこは地球だろうか。
普通の人間に聞こえる音なのだろうか。
そんな妄想をしている今日この頃でございます。

では良いお年を。