初日記


皆様、今年もよろしくお願いいたします。


年明けに二つほど新年会(片方は高校時代の同級生と、片方は大学の後輩の結婚式二次会打ち合わせを兼ねて)に出席。
どちらも相変わらずの下劣極まりない会話に終始し、大いに日頃の鬱憤を発散する。
前者の会では、ほとんど行く事のないカラオケに雪崩れ込み、大所帯でたったの一時間という時間制限の中、BACK TO MID 90'sかつ無茶ブリな選曲で笑い、呆ける。
後者では、結婚式二次会の打ち合わせ(青木君、ばんちゃん、おめでとう!)と称した、「先輩・後輩・同期の関係における筋目」についてえげつない「欠席裁判」が繰り広げられる。
「ほとんど被害妄想」が渦巻く会話をいつの間にか笑いに転じてしまうのは、長年培った関係のたわものか。
いや、ただ笑いたいだけかも知れない。
「俺、やだね、そーゆーの。だってさあ…(延々ともっともらしい反証が続く)」という膠着状態から、いつの間にか劇的な妥協案・折衷案が生まれる。
そこへ導く大きな要素は「本題とは関係のないただのおしゃべり」と「ただのおしゃべりを自由にできる空気」だなと思った。
外野の野次が、内側の凝り固まった状況をほぐす効果的な働きをもたらす事は、往々にしてある。
原くん、まだ笑える時に言っておきたい。
飲み過ぎ注意。


正月に父親が故郷の山形から戻ってくる。
昨年他界した祖父の俳句・詩歌集を携えて。
90年代前半に自分の会社を畳んで以後、趣味であった釣りや山通いをもとに、釣り場や風景の写真を添えた、極私的な句集だった。
妻である祖母との日々や、山形の長い冬と身体にこたえる暑い夏などの日常の雑感が、五七五または五七五七七に込められていた。
一人で読んでニヤニヤしたり、時にほろりとさせて、とても良いお年玉となった。
それを読み終え就寝し、次の日の朝起きると、部屋に飾っていた写真パネルが落ちていた。
この句集を開けばいつでも会えるな、と安心した。
非科学的な発想かも知れないけれど、昨年祖父が入院して、その後危篤に陥り、他界するまでの一ヶ月半の間に、見舞いや法事に行く度に不思議な体験をしているので、自分にとってはそのように考える方がリーズナブルだ。
晩年の祖父と過ごした思い出は釣りにまつわるものが多いので、季語もなく拙い出来のものばかりだが、ここにお返しを。

浮き沈み 地獄極楽 修羅を釣る

蒼天を 切り裂くだけの 竿使い

糸垂れて 異界とつながる最上川

眠気勝ち ああ最上川 最上川

かまいたち 張る糸鳴る音 揚がる雑魚

一服の ついで指舐め 芋の味

星の数 雑魚ばかりでも 俺の勝ち

つまらぬと 孫との時より釣果かな



正月はほとんど家を出ずに、食う、寝る、起きて制作、疲れたら本を読んだり、テレビを見たり、の繰り返し。
4日間のみの休みだったが、全然動かない、故に食も回数が減る、食べると眠くなる、ひたすら眠り、起きても制作しかしないから動かない、を繰り返し、みるみるうちに体力が落ちてしまう。
そうすると心も鬱々としてきて、20代前半のひたすら部屋で惰眠を貪っていた時期を思い出し、さっさと仕事始まんねえかなあと、かつての自分には考えられない発想が生まれて新鮮だった。


初詣。
先日、近場で良いかと夕方に明治神宮に行くが、原宿駅を降りた途端に、「閉門致します」のアナウンス。
「喚ばれてないな」と思い、日を改めて毎年の様に来ている浅草寺へ。
母上所望の煎餅を仲見世で買い、金も払わず線香の煙を浴び撫で付け、そして御詣り。
その後、通例のおみくじ(僕は特定の神様に対する信仰などないのですが、浅草寺のおみくじに対してはかなり敬虔な信者である)。
年末に大吉を引いているため、今回はさほど肩の力も入らず。
結果は、吉と出た。
嬉しい。
その後、喫茶店で自家培煎の珈琲とホットサンド。
幸せ。


新年の抱負、というのも堅苦しいけれど、
「飯や酒の不味くなる理屈や関係に自ら陥らない」
「お天道様が許さねえ、という江戸前な判断基準を大切にする」
こんな感じか。
正月に読んでいた本が、杉浦日向子の本で、この人は江戸にまつわる漫画やエッセイをたくさん遺した人。
この人の本を読んでいて、「飯の不味くなるような屁理屈をこねやがって」とか「世間が許してもお天道様が許さねえ」なんて言葉を見つけて、江戸の人々はなんて賢いのだろうと思った。
前者は自分の中にある欲望や生理を肯定した考え方で、ただそれだけだと簡単にエゴイスティックになってしまうから、「お天道様」という「世間」や「宗教」よりも大きな枠組みの倫理を対置したんじゃないかと思っている。
「世間」という思想は時代によって変わるし、「宗教」という主義は戒律ばかりで不自由だし、やっぱり「お天道様」の方がカッコいい。


月末には母方の祖母の十三回忌。
見落としてはいけない。
自分には親が二人とその親の祖父母が四人とその親の八人と……がいて、どれ一つが欠けても今ここにはいないということ。
よく「自分は祖先の〜の血を引いている」という言葉があるけれども、その「〜直系の血筋」というのはとても限定的なアイデンティティだろう。
例えば自分がやたらに父方の祖父の話を持ち出して自分の話をする時に、父方の祖母とそのバックグラウンド、母方の祖父母と彼らのバックグラウンドを無意識に無視してしまうようなこと。
四人の祖父母に話を限るなら、残る三人の方に埋蔵されている歴史を、それが持つ何かを捨ててしまっている気がして、少し後ろめたいものがある。
だからこそ、「いつでも会える」という風に風通しを良くしておけば、色んな方向に接続することが可能なんじゃないかなと。
死者との良好な関係というのはたぶんこういうことじゃないだろうか。


新年一発目にとりとめ無さすぎる日記でした。
もう少しマメに書こうっと。