キンキョー&モノモースメン


気づいたら口座も合わせ、所持金が2千円くらいしかなかった…。
旅行やカメラのカード支払い終わったと思ってたら、
「二回払い」という名の「悪夢は繰り返す」…。
調子に乗って財布の紐ちぎってた模様のここ数ヶ月。



後輩の結婚式二次会。
思えば新郎新婦が出会った大学のサークルにおける、サークルの人間とのファースト・コンタクト、
時は違えど、共に俺じゃね? お幸せに。
「乾杯の音頭」という依頼を受けた自分含む二人のへそ曲がりな先輩の着地点は、
果たして成功したのか失敗したのか…。
「現場にいない」という一歩間違えば顰蹙覚悟のコマンド選択だもの。
事前の打ち合わせ会議でのえげつない会話の盗聴音源という素敵な副産物はあれど。
三次会、楽しかった。
が、何を話したのかほとんど記憶にない。全然酔ってないのに。
「俺ってそんなに人のこと馬鹿にしてんの??言っとくけど“中野の母”の占いによれば『とても優しい星の元に生まれている』男ですよ!!本当は超優しんだよっ!!!」
とか言いながら絡んでた記憶が薄ぅくあるのみ。
暴言吐いてたらごめんなさい。



最近は○しか描いてない「罰ゲーム」ならぬ「丸ゲーム」。
キャンバスにインクをつけたコミック用のペン先にてカリカリ描くだけの毎日。
サボテンしか生えないような悪路の荒野をターンしながら歩むフィギュアスケーターのごとし。



ツイッターを始めた、というよりも覗きしかしてないけど。
ラッパーとかDJばかりを追従している。
自称・他称問わず「ハードコア」「リアル」を売りにする人たちほど、
ツイッターにはまっているこの構造はなんなんだろう。
自爆すれすれな体重の乗りまくった剛速球つぶやきがおかしくて、
横隔膜を破壊されかねないことしばしば。
その前後にバカリズムの超スローカーブがまた追い打ちをかける。
なんかつぶやいてみようかなと思ってたのに、あるこわもてラッパーが自分をフォローしおったので、
下手な事言えねえんじゃねえかと、いらぬことばかり考えて今日もスティル・ピーピン。
ヒントはこの中の誰か。


無意識過剰なハーコーな人々がツイッターに群がる一方で、
近年ますます進化と深化が著しい「自意識の雄」とでも言うべきスチャダラパーは、
まだツイッターをやってない様子。
ただ単に自分が見つけられてないだけかもしれないけど。
そんな彼らがデビュー20周年を迎えてリリースした「スチャダラパーの悪夢」。

スチャダラパーの悪夢 [DVD]

スチャダラパーの悪夢 [DVD]

先日、プロモーション番組が深夜で放映されて欲しくなった。
ライブ・ツアーで日本中を回る日々を描くドキュメンタリー映像、
と思いきや悪意に満ち満ちた「やらせ」が散りばめられている。
「ヴァイブスが足りない」と繰り返し、“ヴァイブス・トレーナー”と名乗るおばさんをツアーに同行させ、
次第にライブ前の怪しい儀式がエスカレートしだす、スピリチュアルにかぶれたANI。
「やっぱり身の回りのことからね」と、ホワイト・バンドを見につけ、マイボトルにメッセージTシャツ、果ては四国でお遍路になって道端のゴミを拾い出すBOSE
DJ SHINCOはやはり後方で支える屋台骨、冷静かと思いきや、やけにいつもペットボトルのお茶を手にしているなと思っていたら、実は焼酎ウーロン茶割りという事が発覚。四国でも讃岐うどんにつゆではなく酒をかける始末。
これらのちょっとした違和感が徐々に大きくなり露わになるにつれて、
やがてグループの結束が崩壊しだし、スタッフも匙を投げる…
といったありがちな「人間の性」をこういう形で作品化しちゃうからすげえな、と。



「無意識」と「自意識」の間のグレイゾーンにいるグループはRHYMESTERか。
もうすぐ復活。アルバムが来月にリリース。ちょお楽しみ。
「被差別ジャンル(by宇多丸)」であった日本のHIPHOP冬の時代を経ていまだに現役やってる大人たちはやはり説得力が違う。


もはや演歌。



そうだ、オトナって超こええなとも思う。
お腹の出てる方のおじさんは15年近い間、姿を見るだけで嬉しくなる不動の星。

都営が滲む

近頃よく都営地下鉄に乗る。
都営新宿線浅草線という二つの路線を主に利用するのだが、
駅構内の天井の低さや剥き出しになった無数の管、
壁から染み出た地下水と、それを逃がすための通路脇の側構などに感興を催すことがしばしばある。
特に地下水が漏れ出ている箇所などは、人工の地下施設内の一部が鍾乳洞化していくような趣きすらある。
クリーンアップされ「営団」という名前が「メトロ」となった地下鉄網とはまるで違う秩序のようなものが、
現在の都営地下鉄には滲み出ている気がする。
なんと言えば良いか。
下町の家並みに見受けられる暴力的なまでの植木鉢ジャングルのような、
所有者の意図を越え時間をかけて前景化しだした見えざる者の意志とでも言うのか。
はたまた、意図せずに練り固まったホームレスのドレッドヘアの様に、
「素(酢)の人生」と「甘ったれた作為」の間の埋めようもない距離を、
オーラなのかオイニーなのかわからないが、
それによって認識せざるを得ない聖者からの啓示、そして慶事なのか。
このように、都営地下鉄内のいたるところで過剰な無頓着と無意識が生み出す、
送受信能力の狂った「壊れかけのレイディオ感」どころか「跡形もない爆心地レイディオ感」伴う光景を目にする度に、
宇宙の彼方や地底の奥底、日常の極北に通じる秘密の会員制クラブ、
「都営地下倶楽部 虹美(にじみ)」の入り口がぽっかりと口を開けているのを感じる。
そして、その入り口には「非情口」と書かれたプレートが取り付けられており、
通りの良い論理やコンセプトを突っぱねている。


先生、それではよろしくお願いします。

「おい、奴さん寝たぞ」

誰かのこの一言を合図に、各々が隠れていた場所からひょこりと現れてはわらわらと作業机に群がりだす。
ある時は優秀な特殊部隊。
ある時は何を仕出かすかわからない秘密結社。
またある時は、遊んでばかりで風任せ、本業よりも野球とスナック通いに精を出していそうな左官屋。

「まぁた無茶苦茶に仕事残して寝やがって」
「おい、ここなんか、ビシャビシャにインク垂れちまってんよ」
「早いとこおっぱじめねぇ。朝が来ちまわぁ」
「だな。チャチャッと終わらせようや」


そんな彼らの声を夢の中で聞いているのか聞いていないのか定かではないが、朝になって「奴さん」と呼ばれた男は目覚めると、作業机に置かれた「作品のようなもの」を一瞥する。
寝る前に見た画面とは表情を変えたそれを見てただ一言、「なるほど」と腹の中で呟く。
たまに腹の奥の普段使わない筋肉をヒクつかせ、鼻から抜ける笑いをする時もあるが、基本的には「なるほど」の一言のみである。
積極的な肯定も否定も意味しないその一言を呟いた後、余裕がある時は手近にあるインクを手に取り、またその画面へインクを無造作にかけたり塗ったりをして、「じゃ、よろしく」と言わんばかりにいつも通り出勤していく。


ここ最近は常にこのような感覚を抱きながらの制作。
限られた時間内に何かを作ろうとする時、普通はいかに作者と作品とが関わる時間を長くするか、いかに無駄なく制御された完璧な技術を駆使するかが、作品の規模や量などの質を決定しがちだ。
けれど、その考え方にはアートとは関係もない普通の人間でも、日常の中で聞かされるとたいていは「す、すいません…」と言いたくなるような、例の印籠めいた言葉がうすらぼんやりと自分にはチラつく。
「効率化」もしくは「合理化」という言葉。
少なくともこの言葉に自分はかなりひるむ。
それはあらかじめ決められたゴールへいかに正確に速く、しかも楽に到達できるかという点で、昨今疑問視されているあのナントカ本主義とかナントカーバリズムを思い出してしまう。
あれらは要は「時間」のもたらす不確定性を限りなく「ゼロ」にすることを良しとするらしい。
やったらやった分だけ「すぐに」成果を欲しがったり。
遅滞なく「思い通り」に事を運ばせたがったり。
時間がもたらす予想不可能な「事故」や「奇跡」を排除したがったり、仮にそういうことが起きても全てを「分析」できると思ったり。


見る側の気持ちはわからないけれど、少なくともやってる当人の自分にはあんまりオモシロクナイ。
なんでもかんでもコントロールできるなどと夢にも思わず、時間の住人の出る幕を用意して好きに遊ばせている方が、自分に関しては興奮度が高い。
誰かに依頼されたり、展示会を控えていたり、次の作品を作るための稼ぎを手に入れるためだったり、世界を変えてやろうという思想のためだったり、「つくる」という行為にまつわるあらゆる水準の動機があるんだろう。
それでも最近の僕は、画面上にだけ流れる時間との時間差のある、しかも全く割に合わない掛け合いこそが、最も自分のテンションを上げる。
そこから始めないことには、社会的に必要なあれこれをどうにもこなせる気がしない。


それでは先生方、お戯れの時間です。

初日記


皆様、今年もよろしくお願いいたします。


年明けに二つほど新年会(片方は高校時代の同級生と、片方は大学の後輩の結婚式二次会打ち合わせを兼ねて)に出席。
どちらも相変わらずの下劣極まりない会話に終始し、大いに日頃の鬱憤を発散する。
前者の会では、ほとんど行く事のないカラオケに雪崩れ込み、大所帯でたったの一時間という時間制限の中、BACK TO MID 90'sかつ無茶ブリな選曲で笑い、呆ける。
後者では、結婚式二次会の打ち合わせ(青木君、ばんちゃん、おめでとう!)と称した、「先輩・後輩・同期の関係における筋目」についてえげつない「欠席裁判」が繰り広げられる。
「ほとんど被害妄想」が渦巻く会話をいつの間にか笑いに転じてしまうのは、長年培った関係のたわものか。
いや、ただ笑いたいだけかも知れない。
「俺、やだね、そーゆーの。だってさあ…(延々ともっともらしい反証が続く)」という膠着状態から、いつの間にか劇的な妥協案・折衷案が生まれる。
そこへ導く大きな要素は「本題とは関係のないただのおしゃべり」と「ただのおしゃべりを自由にできる空気」だなと思った。
外野の野次が、内側の凝り固まった状況をほぐす効果的な働きをもたらす事は、往々にしてある。
原くん、まだ笑える時に言っておきたい。
飲み過ぎ注意。


正月に父親が故郷の山形から戻ってくる。
昨年他界した祖父の俳句・詩歌集を携えて。
90年代前半に自分の会社を畳んで以後、趣味であった釣りや山通いをもとに、釣り場や風景の写真を添えた、極私的な句集だった。
妻である祖母との日々や、山形の長い冬と身体にこたえる暑い夏などの日常の雑感が、五七五または五七五七七に込められていた。
一人で読んでニヤニヤしたり、時にほろりとさせて、とても良いお年玉となった。
それを読み終え就寝し、次の日の朝起きると、部屋に飾っていた写真パネルが落ちていた。
この句集を開けばいつでも会えるな、と安心した。
非科学的な発想かも知れないけれど、昨年祖父が入院して、その後危篤に陥り、他界するまでの一ヶ月半の間に、見舞いや法事に行く度に不思議な体験をしているので、自分にとってはそのように考える方がリーズナブルだ。
晩年の祖父と過ごした思い出は釣りにまつわるものが多いので、季語もなく拙い出来のものばかりだが、ここにお返しを。

浮き沈み 地獄極楽 修羅を釣る

蒼天を 切り裂くだけの 竿使い

糸垂れて 異界とつながる最上川

眠気勝ち ああ最上川 最上川

かまいたち 張る糸鳴る音 揚がる雑魚

一服の ついで指舐め 芋の味

星の数 雑魚ばかりでも 俺の勝ち

つまらぬと 孫との時より釣果かな



正月はほとんど家を出ずに、食う、寝る、起きて制作、疲れたら本を読んだり、テレビを見たり、の繰り返し。
4日間のみの休みだったが、全然動かない、故に食も回数が減る、食べると眠くなる、ひたすら眠り、起きても制作しかしないから動かない、を繰り返し、みるみるうちに体力が落ちてしまう。
そうすると心も鬱々としてきて、20代前半のひたすら部屋で惰眠を貪っていた時期を思い出し、さっさと仕事始まんねえかなあと、かつての自分には考えられない発想が生まれて新鮮だった。


初詣。
先日、近場で良いかと夕方に明治神宮に行くが、原宿駅を降りた途端に、「閉門致します」のアナウンス。
「喚ばれてないな」と思い、日を改めて毎年の様に来ている浅草寺へ。
母上所望の煎餅を仲見世で買い、金も払わず線香の煙を浴び撫で付け、そして御詣り。
その後、通例のおみくじ(僕は特定の神様に対する信仰などないのですが、浅草寺のおみくじに対してはかなり敬虔な信者である)。
年末に大吉を引いているため、今回はさほど肩の力も入らず。
結果は、吉と出た。
嬉しい。
その後、喫茶店で自家培煎の珈琲とホットサンド。
幸せ。


新年の抱負、というのも堅苦しいけれど、
「飯や酒の不味くなる理屈や関係に自ら陥らない」
「お天道様が許さねえ、という江戸前な判断基準を大切にする」
こんな感じか。
正月に読んでいた本が、杉浦日向子の本で、この人は江戸にまつわる漫画やエッセイをたくさん遺した人。
この人の本を読んでいて、「飯の不味くなるような屁理屈をこねやがって」とか「世間が許してもお天道様が許さねえ」なんて言葉を見つけて、江戸の人々はなんて賢いのだろうと思った。
前者は自分の中にある欲望や生理を肯定した考え方で、ただそれだけだと簡単にエゴイスティックになってしまうから、「お天道様」という「世間」や「宗教」よりも大きな枠組みの倫理を対置したんじゃないかと思っている。
「世間」という思想は時代によって変わるし、「宗教」という主義は戒律ばかりで不自由だし、やっぱり「お天道様」の方がカッコいい。


月末には母方の祖母の十三回忌。
見落としてはいけない。
自分には親が二人とその親の祖父母が四人とその親の八人と……がいて、どれ一つが欠けても今ここにはいないということ。
よく「自分は祖先の〜の血を引いている」という言葉があるけれども、その「〜直系の血筋」というのはとても限定的なアイデンティティだろう。
例えば自分がやたらに父方の祖父の話を持ち出して自分の話をする時に、父方の祖母とそのバックグラウンド、母方の祖父母と彼らのバックグラウンドを無意識に無視してしまうようなこと。
四人の祖父母に話を限るなら、残る三人の方に埋蔵されている歴史を、それが持つ何かを捨ててしまっている気がして、少し後ろめたいものがある。
だからこそ、「いつでも会える」という風に風通しを良くしておけば、色んな方向に接続することが可能なんじゃないかなと。
死者との良好な関係というのはたぶんこういうことじゃないだろうか。


新年一発目にとりとめ無さすぎる日記でした。
もう少しマメに書こうっと。

昨日・今日・明日・最近

昨日は六本木ヒルズへ「医学と芸術展―生命と愛の未来を探る」(http://www.mori.art.museum/contents/medicine/index.html)を見に行く。

クリスマスなので東京タワーにハートのライトアップが。
普段のライトアップの方が全然良いと思うが。


「身体」をテーマにした展覧会で、ダヴィンチのデッサン(実物)をはじめ、
中世ヨーロッパの医学書、人体模型、絵画、医療器具から、現代アートまで、
バリエーション豊かな展示で見応えあり。


3、400年前に書かれた医学書にある人体の挿絵などは、
どこかアウトサイダー・アート(厳密な定義ではないが、端的に言えば美術教育を受けていない、主に脳などに障害を持った人たちのアート)のようだった。
今では医学や科学の発達によって「人間」というものが「分かる」「見える」と自分を含め、
あらゆる人が思ってしまっているが、「果たして?」という疑念が湧く。
もしかしたら、数百年前の医学や科学が未発達の時代の解剖図と、
近現代のアウトサイダー・アーティストたちの絵の不思議な類似には、
人間の想像・創造力において何かヤバい本質的なものが貫いている気がした。


他に目を引いたのは、「貞操帯」と「男性用マスターベーション禁止器具」だった。
はじめて現物の「貞操帯」をマジマジと見た。
形はいわゆるTバックだった。
ただ鍵の付いた鋼鉄のパンツだと思っていたが、
ちゃんと便をするために「小」用の亀裂と「大」用のカーブ(穴を避ける為のピンポン球程度のRがある)が施されていた。
「あ、なるほど」と、生理に即した機能を考慮して作られているんだと感心したのも束の間、
「そっちの穴の貞操観念は観念したのか…」とも思った。


「男性用マスターベーション禁止器具」は、下を向いた水道の蛇口そのものだった。
恐らく騎士の甲冑などを作っていた優秀な鍛冶屋によるそれは、
鈍い光を放った重厚かつシンプルな鋼鉄の管で、重力に任せ飴の様に蕩けた流麗な曲線を描くもので、
いままでに見たどんな水道の蛇口よりも美しいと思った。



今日は仕事帰りに、今年最後の神田明神参り。
今年は何度ここへ心を鎮めに来たことか。
「江戸っ子」というのは本来、神田にいた江戸の人間のことを言うらしい。
自分もそこで仕事をしているので、「江戸っ子」にあやかり、
参拝する度に財布の中の小銭を全て賽銭箱に投じてきた。
今回も例に倣い、いつもよりも念入りにお参り。
自分に関わる人たち全ての安全・無事・無敵を願う。
ちなみに「無敵」とは、自分を倒す敵がいないほど「強い」ということではなく、
「自分に敵対する人の無い状態」である、つまり「世界と調和できている」状態である、
というようなことを何かで読んだ。
とても好きな解釈なので受け売り。
敵は我にあり。
来年もまた宜しくお願いします。

ついでに、明日の有馬記念の的中を切にお願いする。
明日は久々の現場観戦。




最近の製作状況。
この頃は、画面のディティールを凝視したくなるのをあえてこらえて、
乾くのも待たずに次のジャケットに取り掛かることにしている。
絵具などが有機的な動きをするのを見ているのは眼に非常に心地良いのだが、
危うく「フェチ」の落とし穴に落ちてしまいそうなので。
落ちて何が悪いのか、という反問もできるのだが、なんかそういうのじゃない、みたいな。
もっと野卑に。不機嫌な顔してスパンキング。レッツ徒労イング。
そんな感じ。

車のスクラップ工場に積まれたペシャンコになった車の塊があるが、あの「圧縮感」は、
漆黒の塩化ビニールに刻まれた音と、それを包むジャケットからなるレコードというメディアが、
レコード棚に並んでいる様子に似ている気がする。
圧縮の圧縮の圧縮のアッシュクのあっしゅくのあっくしゅの握手の悪臭のはっくしょん。
どれだけ並べられるか、どれだけ圧縮できるのか。
話はずれるが、コレクターかそうでないかの線引きは、所有枚数を把握できるかできないか、だと思う。
数えられてるうちはコレクターではない。
全てのレコードを把握できているようでは、まだ狂気の沙汰でない。
自分の作品数はまだまだサタデーナイト・フィーバーには及ばない。


くっっだらね。


レコードバッグにこんなレコードしか入ってないDJたちの催すパーティはどんな音が鳴っているんだろうか。
そこは地球だろうか。
普通の人間に聞こえる音なのだろうか。
そんな妄想をしている今日この頃でございます。

では良いお年を。

























途中の壁、これから鳴る音

町を歩いていると、ついこの間まであったビルが解体されて、その空間だけがボッコリと抜け落ちている光景に出くわすことがある。
そんな時、その空間に隣接している建物の壁に視線が行く。
まだ健在である隣の建築物の裏の壁は、必ずと言っていいほど汚れている。
クリーニング不可能なわずかな隙間にたまった埃や排気ガス、通気孔から排出された煤などが、その隙間に入り込んだ風雨によって、長い時間を経て壁に定着されている。
確かにその壁は汚れてはいるけれど、通気孔から放射されて付着した煤は、どんなエアブラシにも出せないような強靭で濃密な表情と雰囲気を醸し出している。
壁にこびりついた埃や油やシミは、どんな紙やキャンバス、筆を使っても再現不可能な、また、そのシミの生成過程を想像することすら困難な、まさに奇跡的な汚れ方をしていたりする。
そんな壁を見ると、「これも絵だ」という強い思いが湧く。
それは作為も目的もないただの壁の汚れでしかない。
しかし間違いなく自分の中で「絵」としか思えない、そんな壁に出くわすと、一言に「制作意欲」と言うのとは微妙にズレた、不確かで曖昧で、ただ強烈な衝動と確信を伴った何かが、自分のスイッチを破壊しかねない力でもって押すのを感じる。
今描いている絵は、レコードのジャケットという決まったサイズに、絵の具や雑誌やポストカードの切り抜き、ラメ、ティッシュペーパー、和紙、糸、付箋、フェルト、カッティングシート、プラモデルのパーツなどを、どんな絵になるかも特に考えずに、塗ったり、汚したり、貼ったり、剥がしたり、練り込んだり、を繰り返しながら描いている。
禁忌というほどのものでもないが、「素材をケチったり整理しだすとデザインになってしまう」「画面に意味が簡単に浮上してくると頓知や説明になってしまう」という意識だけを心の片隅に置き、無駄・無意味の集積をわずか30センチ四方の空間に圧縮させている。
今後、この作法がどのような作品なりシリーズとして着地するかは全く予想もつかないし、考えてもいない。
けれども、乾かない画面に置かれた色が滲み流れ、下の素材や色と互いに影響し合い、それらがどのように定着するのか分からないまま就寝し、翌日の朝に起きて画面を眺めて、狙っては生まれない風情をそこに確認する度に、「もっと行ってみよう」と思う。
ゴールも目標もないのだけど、「あっち」と、どこの誰だかわからない奴に指を差されて、訳もわからないままにその方向へ進むのを微塵も疑っていない、という状態が続いている。
そんな「絵」を、「時間」や「偶然」や「事故」の力を借りながらつくっていると、町の片隅に不意に現れる作者不詳・使途不明の「壁画」を思い出す
































仮の姿ではあるが、まだまだモノマネの域は超えないか。
たぶんこれらももう何回か無駄に手数を費やす予定。
20枚を超えた辺りから、「無作為を演出するための作為」「無意味と思わせる為の意味」みたいなのが出てきてしまう。
ある意味でいつも通りの難関登場。
「勢い」とか「天然」が様式化されてしまうことほどつまらないものはない。
本来の目的が倒錯・転倒しはじめたので、ここら辺で一度晒して区切る。
この一周回ったくらいからどんな手を打っても重苦しい気分になるのだけど、ここを堪えれば経験上また音を立てて進んでいくはず。
広島カープばりの千本ノックとまでは言わないが、やっぱり3桁超えてなんぼだろ、とは思う。
それでも、人にとって面白いものができるかどうかは、保障できない。
でも100超えたら、自信だけはきっとつくんじゃないか。
いくつかは人が見て面白いものも出てくるんじゃないか。

Let's WORK.

先日、誘われてコレしてきました。



内田樹の研究室」http://blog.tatsuru.com/

「働く」ことについて、いま最も素敵な考え方を提示してくれる賢人のブログ(12月16日のエントリー)。
ちょっと長くて読むの大変だけど、すごく腑に落ちる。

この人の著書のほとんどが、このタダ読みOKなブログが元となっていたりする。
現代の諸問題における考察において、近頃では最も面白く、信用している書き手。
橋本治広告批評がなくなってから、そういういわゆる「現代」を全く扱わなくなってしまったし)

この人が言う「働くとは贈与することである」とは、まさにこの人のブログのことだ。


久々に休日に早起きができた。
今日は久々に真昼に「労働」ができる。
睡魔との格闘も回避できて、とても嬉しい。